小説 青い夢を見た時に7(母親の物語、空き地)
乳房を失う前、そこは空き地ではなかった。
花が咲き、人々が出入りしているはずだった。空き地は、空き地になってはじめてそれに気づいた。
そこは、命の気配を感じない場所だった。何も無い場所。
そこに何かを探しているのか。
そこは無くしてしまったものなのか。
ただ、それを見つめない訳にはいかなかった。
見つめれば見つめるほど、そこには何も無かった。
無くしたものの痕跡すら無かった。
暖かかった余韻さえ無かった。
あるとしたら、無くしてしまった事実の切れ端みたいなものだけがそこにあった。
かつて、自分は何も失ってなかった。
それだけがそこにあった。
生まれて間もない息子を抱き、狭い部屋の片隅の化粧台の前でその空き地を見つめた事もあった。
息子は小さく腕の中に抱かれている。
しかし、乳房の無い母親を息子はどう感じているのだろう。
息子が何かを訴えて泣く度に、その訴えが自分の乳房を欲している声に聞こえて、息子に母乳をあげられない自分は、もう母親でも女でもないような気がした。
そして空き地は、そうやって見つめる度に、更に深く濃く、今、生きている領域にまで沁み込んで来るようだった。
その殺風景な場所に唯一、生命の気配があるとしたら、それは琳太郎の足跡だった。
そこには誰もいない。
しかし、十数年の歳月の中で、唯一、息子の足跡だけは見つけ出せた。
ほんの小さい足跡から、大きいものまで、それは過去のものではあるけれど、今、すぐ隣の部屋で眠っている息子のものだった。
時には、そのたった今付いたばかりの足跡をじっと追い続けてみた。
息子が跳ね上げる土煙が舞っていることもあった。
深い静寂の中で、つい今、蹴り上げたばかりの土煙がゆっくりと弧を描いて地面に降りて行った。
でも、いつも、あと一歩が追いつけなかった。そして、気が付くと、その空き地は、またずっと広がってしまっていた。
つづく
花が咲き、人々が出入りしているはずだった。空き地は、空き地になってはじめてそれに気づいた。
そこは、命の気配を感じない場所だった。何も無い場所。
そこに何かを探しているのか。
そこは無くしてしまったものなのか。
ただ、それを見つめない訳にはいかなかった。
見つめれば見つめるほど、そこには何も無かった。
無くしたものの痕跡すら無かった。
暖かかった余韻さえ無かった。
あるとしたら、無くしてしまった事実の切れ端みたいなものだけがそこにあった。
かつて、自分は何も失ってなかった。
それだけがそこにあった。
生まれて間もない息子を抱き、狭い部屋の片隅の化粧台の前でその空き地を見つめた事もあった。
息子は小さく腕の中に抱かれている。
しかし、乳房の無い母親を息子はどう感じているのだろう。
息子が何かを訴えて泣く度に、その訴えが自分の乳房を欲している声に聞こえて、息子に母乳をあげられない自分は、もう母親でも女でもないような気がした。
そして空き地は、そうやって見つめる度に、更に深く濃く、今、生きている領域にまで沁み込んで来るようだった。
その殺風景な場所に唯一、生命の気配があるとしたら、それは琳太郎の足跡だった。
そこには誰もいない。
しかし、十数年の歳月の中で、唯一、息子の足跡だけは見つけ出せた。
ほんの小さい足跡から、大きいものまで、それは過去のものではあるけれど、今、すぐ隣の部屋で眠っている息子のものだった。
時には、そのたった今付いたばかりの足跡をじっと追い続けてみた。
息子が跳ね上げる土煙が舞っていることもあった。
深い静寂の中で、つい今、蹴り上げたばかりの土煙がゆっくりと弧を描いて地面に降りて行った。
でも、いつも、あと一歩が追いつけなかった。そして、気が付くと、その空き地は、またずっと広がってしまっていた。
つづく
- 2012.09.18 Tuesday
- 小説
- 22:47
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- by huuyou